膨れ上がってる

ささくれた名盤などについてのメモ他

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火男

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火男 / 根津甚八 (1982)

せっかくのGWだからと、毎日真剣に「どんどん目がよくなるマジカルアイ」を読み続けているのに、視力が良くなっている実感が一向に味わえませんし、どちらかというと頭が悪くなっている実感があります

マジカルアイで視力が回復する仕組みは、ピント調節機能を失うほどに凝り固まった眼の筋肉を凝りほぐすことにあるようですが、僕のように物心ついたころにはすでにだいぶ視力が悪く、物心ついてからもスネ夫とトンガリの区別がつきにくい※1ような人間には、今更絶大な効果が期待できるものではないようです。

ただ、ここでマジカルアイをある程度試したうえで結果として視力が回復しないことを体感しない限り、今後の人生でマジカルアイに対するなんとなくの期待を捨てきれないと思うし、そういう雑念を振り払った後に「もはや見なくてもいいものは見なくてもいい」との達観思考を得るために、僕は毎日マジカルアイを読み続ける所存です。

そして、こういうむやみにポジティブな思考こそ、まさにマジカルアイの効能で脳がやられている証拠だと思ってますー。


さ、自分の発言を無視して、「見なくてもいいものは見なくてもいいけど見たら見たでおもしろいよー」という本編ですー。

以前、河内音頭とレゲエとの親和性の高さについて駄文をこねくり回したことがありましたが、ここに来て2012年に再発された根津甚八のアルバム「火男」があまりにも本格的なルーツレゲエ歌謡な怪盤すぎて、もう1年半くらいずっと混乱しているのです。


このタイトな演奏はもちろん、
この声!この細すぎる声の素晴らしさよ…!

当アルバムは、1984年に俳優根津甚八がハプニングスフォーのチト河内(ドラム担当)のプロデュースのもと南フランスで録音したレゲエアルバムであり、こうやって前提事項を繋いでいくだけでも全体像の想像がさらに困難になるという特殊さ。しかも、演奏はむやみに本気であり、とにかく金をかけました感が存分に味わえる一枚となっております。



はっきり言って、個人的に根津甚八に何か思い入れがあったわけではなく、なんとなく上に書いたようなブレまくりの録音環境に興味があって聴いてみたんですが、結果として「根津甚八すげえぜ」以外の感想が出てこないくらいの衝撃を受けました。受けましたが、いまだに根津甚八個人には思い入れはありません。「合掌」くらいしか思うことはありません。

常々、ルーツレゲエ、演歌、UKロックの根っこは同じところにある※2と思ってしきりでしたが、このアルバムはまさにその地平上にそそり立つ奇盤ですので、特に奇盤好きの方に強くおすすめします。

物足りない休日をお過ごしのあなた、もうマジカルアイなんて悠長に読んでいる場合じゃないですよ!


※1 どう見てもスネ夫の名前が「トンガリ」です。
※2 それらの音楽の背景に共通するある種の怨念や鬱屈とした感情は、金をじゃぶじゃぶ費やして制作されたこのアルバムからは全く読み取れませんが、そこらへんの細かい話は甚八が全部天国に持って行ったので、もう許してあげましょうよ!いいじゃないですか!
※3 すごく残念なことですが、かなりお世話になった横浜黄金町のライブハウス「試聴室その2」が閉店しました。日々、かなり実験的な音が飛び交っていた場所でしたが、その音をまとめたコンピレーション「メモリー黄金町」に僕も参加させていただきました。光栄です!
フリーダウンロードですので、この際ぜひお聴きください → http://shicho.org/memory/



↑僕ではないです。もんでんやすのりです。
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Melhor do Que Parece

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Melhor do Que Parece / O Terno (2016)

サボテンを愛でに愛で、日々愛で続ける生活を送っています。

いつからこんなにもサボテンにのめり込んでしまったのかわかりませんが、大学生の頃などは「植物は全て死に絶えろ」と強く思っていたことは確かだし、当然ながら卒論も植物の病気関係だったので、おそらく就職してからの衝撃的な何か、頭を強く打ったとかそういう物理的な衝撃が起因しているような気がします。

2010年頃、当時付き合って間もない彼女(上智大学神学部卒)に新宿御苑でこっぴどく振られる要因となった発言が「見てあれ、木。超木。」(※1)だったことも踏まえると、その頃ですら植物を軽視しているフシがあるので、サボテンの目覚めはここ5年以内と考えていいでしょう。

ともかく、今はサボテンを愛しています。特に、奇形のサボテンを愛しています。

最も、厳かで格式高い多肉植物・サボテン界では、「奇形」などという頓狂な呼び方は好まれず、主に「石化」、「帯化」、「綴化」、「モンストローサ」など(以下、「綴化」に統一)と表現されます。
植物は、茎や葉の先端にある生長点が細胞分裂することにより成長するわけですが、この生長点に虫の食害や何らかの遺伝子異常が生じると生長点の「点」が「帯状」になることがあります。この状態を「綴化」と呼ぶわけですが、実際に見ていただいた方が手っ取り早いので、以下のサイトをご覧ください。

https://matome.naver.jp/odai/2137751454831813301

どうでしょうか、この気持ち悪さ。いやー、改めてまとめて見ると本当に気持ち悪いですね。
この、細かいボツボツが密集したときの気持ち悪さ、一体なんなんでしょうね。
噂によると、「綴化」を愛でるのは日本の一部の愛好家のみであり、海外のサボテン栽培農家では「綴化」が生じると廃棄処分するとのこと。シンメトリーに美学を汲み取る向きにはそりゃ嫌われるでしょう。

ただ、普遍的な価値感に価値を見出すことだけが価値観の全てではありません。綴化サボテンには綴化サボテンにしか表せない形があるのです。

さ、前置きが長くなりましたが本題です。




モサモサしてますね。
この、人を食ったような外見と困っても困らなくてもとりあえずファズを踏む姿勢は、間違いなくトロピカリアのオリジネーターの一つOs Mutantesを強く意識したものでしょう。
Os Mutantesはその名の通り「突然変異」を体現したバンドで、ブラジルの軍国政権への反発として煌びやかに花開いたトロピカリアのサイケ面を象徴する音を鳴らしました。(※2)

このO Ternoはここ最近ブラジルに現れた若いバンドですが、「突然変異」と呼ぶにはまだOs Mutantesをなぞっている状態です。
音の節々に才気を感じさせるものの、まだ若さとサイケへの憧れが先行しすぎているフシがあります。

とはいえ、2枚のアルバムでここまで道を踏み外しつつあることを突然変異好きとして素直に受け止め、今後の「突然変異の突然変異」を期待しましょう。

がんばれー!



ところで、自分のiphoneのメモにちょっと前から保存してある単語「IKEAの粉」の意味がいまだに全くわからないので、どなたか心当たりがあれば教えてください。

※1 この発言に対して先方が返したのが、名言「もっと知的なこと言えないの?」です。ナイフの切っ先のような言葉選びの鋭さですね。
※2 比較音源:Os Mutantes

Danç-Êh-Sá

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Danç-Êh-Sá / Tom Zé (2006)

何年か前、わざわざ東海道線で30分ほどかけて平塚まで赴き、毎週末恵比寿でフラメンコを習っているという謎の胡散臭いババアの話を聞く、という仕事をしたことがありました。
ババアにはなぜか妙に気に入られ、2時間ほどピアノを弾かれて一方的に半生を語られた挙句、「あなたの歯並びは綺麗ね。あなたの歯並びは、いつかきっと誰かを幸せにするわ。」と言われたのです。
それからというもの、極力、歯を剥き出しにして会話することを心がけて生きています。何しろババアが言うことには、僕はメシアであり、歯並び界の釈迦ですから。
去り際、ババアが寂しそうな表情で、「あなた20代後半くらいでしょう?今度フラメンコの先生を紹介するわ。綺麗な女性よ?」と言いながら売り物のサングラスを供与してくれたくらいなので、恐らくババアの言うことは間違いないと思うのです。

あれから数年経ちますが、今のところ他人から「あなたの歯並びに救われた」などと言われたことなど一度もないので、今後奇跡的に出会うことになるのか、もしくは、本当はそう思っているものの言いだせないでいる方がいるのかもしれません。
または、歯並びに人生を救われるような時代は実はもうすでに終わってしまっており、時代に求められることは今後ありえないのかもしれません。
いずれにせよ、僕は道化のように歯を剥き出しにして生きる他ないのです。ババアとの約束ですから。

ちなみに、その後僕の担当が変わってしまい、無表情で電卓を叩き続ける仕事になってしまったので、フラメンコの先生を紹介されることはありませんでした。



さて、無表情かつ歯を剥き出しにして電卓を叩くことに何の意味も見出せない日々を送っているわけですが、そこに意味を見出したとして、その意味を見出す行為自体に何の意味があるのでしょうか。

(悟り)

そういう気概で言えば、トンゼ。今年で80歳になる御大は、明らかに悟りを開きつつあります。
カエターノ・ヴェローゾ、ジルベルト・ジル、ムタンチスといったトロピカリア、MPBのオリジネイター達の影に隠れ、トンゼは全身の気孔という気孔を全開にしてブラジル音楽界の裏街道を掘り進み、老齢にして奇行を極めつつあります。
近年、特に70歳前後になって以降の死に急ぐかのような多作ぶりがすぎるので全てを追いきれていないものの、激烈にアッパーで気狂いな変則変態サンバは、トンゼ本人が棺桶に近づくほどその度合いを増して来ているのです。
特に、2006年にひっそりとリリースされたこのDanç-Êh-Sá は、近作のうちでもかなり陰気に捻れまくった音であり、全7曲というEP並みのボリュームながら、その分濃すぎる世界が展開されます。もはや涅槃です。



日本盤の帯によると、『ミュージカル調で、トンゼ自身もあまり歌わない』ということだったので、正直あまり期待せずに聴いてみたものの、トンゼは精神病棟の患者のごとく奇声を上げまくってるし、なにしろボーカルワークを抑えた分のエネルギーが曲のアレンジに向かった結果、ミュージカル調が捻れに捻れて着地失敗したかのような気色の悪い音に落ち着いていて、非常に衝撃的でした。
そもそも、トンゼはボーカルワークよりもむしろ曲の構成のネジが外れているタイプなので、トンゼ自身が歌うか否かはそこまで魅力を損なう要素ではないのでしょう。

このアルバムがリリースされた頃といえば、あまつさえメディアに踊らされやすい僕などはもう踊りに踊っており、白目を剥いて息も絶え絶えに涎を垂れ流しながら「2+2=5かっけー、There Thereすげえ」と馬鹿の一つ覚えのように連呼していたような馬鹿でした。
トンゼがこんな『変態ここに極まりけり』な傑作を生み出していたのに、インターネット環境になかった僕にはそんな情報すら届かず、諸誌でも見事にスルーされ話題に上ることもなく、2+2などという簡単な足し算すら間違える失態。
今さらながら後悔しきりです。


あの頃にトンゼを聴いていれば、もしくは・・・。
バタフライエフェクトのように、小さな影響が積み重なって、ババアからフラメンコの先生を紹介されていたかもしれません。


そんなくだらないことを毎日考えながらも、僕は今日も無表情で電卓を叩くのです。
歯を剥き出しにして。

Ode To J.Smith

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Ode To J.Smith / Travis (2008)

なんとなく、「媚びるより媚びられたい」と思って私は今日まで生きてみました。
ですから、いつか宇都宮動物園に行かねばならないと思っていました。そしたら、この間たまたま宇都宮に行くチャンスが巡ってきましたので、そういうことで宇都宮動物園に行ってみたんです。ついに。

宇都宮動物園といえば、全国でも珍しい私営の動物園。かつ、ほとんど全ての草食動物に自由に餌を与えることができるという奇跡的なエンターテイメントスポットであり、同時に廃業寸前の危うさも保つという絶妙なバランスの上で運営されています。
通常、動物園の展示動物といえば、私たち来園者には全く興味を示さず、気まぐれに丸太を登ってみたり、はたまた降りてみたり、リンゴをかじってみたり、リンゴをかじりながら丸太に登ってみたりするわけで、興味の対象は餌を与えてくれる飼育員のみに向けられています。
私たち来園者からすると、奴らはあくまでも檻の中の展示動物にすぎず、普段見ることができない動物を漠然と眺めるという非日常感に覆い隠された狭い社会内でのルーチンワーク的な日常感を一方的に味わわされるわけで、その価値観の隙間、価値観の真空地帯が私たちを傍観者の立場に追い込み、ついには心に漠然とした一抹の寂しさを感じさせることになります。漠然とした一抹の寂しさというものは、少年を犯罪に駆り立てる一つの要因になるわけですので、そういう意味でも動物園側は漠然とではなく具体的な対策を検討する必要があると言えるでしょう。

そういった見方からいうと、宇都宮動物園の動物(厳密には草食動物)たちは、一心不乱に客に媚びます。キリンも象もバーバリーシープも、まるで禁断症状が出た麻薬中毒者のごとく客に媚びまくります。そして、ガキは餌(ニンジンやリンゴのぶつ切り)を奴らに振りかぶって投げます。本気で投げつけます。動物(厳密には草食動物)はさらに媚びます。ガキはさらに腕よもげろと言わんばかりに本気で投げつけます※1。もっと言えばガキは、自らニンジンやリンゴをかじることで動物(厳密には草食動物)を焦らすこともできるのです。
つまり、ここに媚びる、媚びられるの循環社会が形成されます。

上記のように、動物園に対し、展示動物を漠然と眺めた後に心に一抹の寂しさを味わって帰宅するもの、という価値観が前提にあるのならば、宇都宮動物園のこの特殊な展示形態こそ非日常感そのものであり、来園者が能動的に餌を与えられることにより日常感を徹底的に排除することに成功したといえるでしょう※2
これでもう栃木県のガキが非行に走る心配はありませんね。よかったね、栃木県のガキ。

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(一方、肉食動物は主にやさぐれています)


さ、栃木県のガキを非行から救ったところで、問題の例のアルバムです。

Ode To J.Smithは、デビュー以後いつまで経っても隠さず醸す真っすぐな煮え切らなさが魅力のイギリスのバンドTravisが2008年に発表した6thアルバムであり、それまでの演歌寄りUKロックのスタイルをかなぐり捨て、凡庸なギターロックに変貌してしまったことでファンからは「どうでもいい」と見なされている名盤です。
Travisといえば、いかにもUKロック然とした優等生的なイメージがどうしても拭えず、社会の枠組みから外れてしまった輩やそもそも社会の枠組み自体に疑問を持ってしまった哲学的劣等生からはクラス委員的なベビーフェイスとして忌み嫌われているわけですが、それでも演歌寄りUKロックの旗手として演歌寄りUKロックファンからの根強い人気がありました。

しかし、このアルバムにおいては、前述のとおりアルバムを通して荒々しいギターロック調の曲ばかりであり、何度アルバムを聴いても曲の聴き分けが難しいという非常に高度なアレンジ手法が大胆に取り入れられています。

そのような敷居の高い構成のうち、特筆して聴くべきは以下の1曲です。


ギターロックに突如としてスライディングで滑りこんでくる聖歌隊。
聖歌隊を滑り込ませるとなぜだかサイケロックになる、という偶発的なアレンジ自体は、サイケロック史において時たま用いられてきた手法ですが、今までサイケのサの字も見せなかったTravisが、どうしたって保守的になりがちなファン心理を欺いてまで突然こんな奇矯なロックオペラ※3を演奏しだしたことに価値があります。

媚びる、媚びられるの循環社会の中で優位性を保つことが目的の産業ロック界にあって、このような向こう見ずなブレイクスルーを決め込む意気。そこにこそ、このアルバムを聴く価値があるんだと思いますし、だからこそ今日も僕は無表情でこのアルバムをリピート再生します。


おわり


※1 作新学院が栃木県代表の常連として甲子園に出場する理由がここにあります。
※2 宇都宮動物園に何度も通い、これが動物園の常識であると考えるようになってしまうと来園者の非日常感は加速度的に薄れていきます。宇都宮動物園は、非日常感を継続的に提供するための施策を考えねばならず、そこに現代社会が抱える闇があるといえるでしょう。
※3 この曲を最初に聴いたときになんとなく思い浮かべたのはこれです↓

※4 念のために言い訳しますが、僕は高校時代からかれこれ10年以上Travisを聴き続けている筋金入りのファンです。他の筋金入りのファンの方、気分を害されたのであれば謝ります。ごめんなさい。ちなみに、一番好きなアルバムは4thです。

Martin Rev

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Martin Rev / Martin Rev (1980)


昨日の話ですが、無表情で残業を切り上げ、無表情で立ち寄ったホームセンターで珍しい形のサボテンを発見、購入後小脇に抱えて帰り道を急いでいた道すがら、酔っぱらいのおっさんに「やたらと大事そうに抱えているが、あんたが持っているそれはおいしいのか?」と声をかけられる、という事案が発生。そこで、「これはサボテンですよ。無能。死ね。」とバッサリやってもよかったんですが、もしかしたらこのいかにも冴えないおっさんはサボテンを食べる郷の生まれなのかもしれない、僕に懐かしき思い出の日々を否定され妻には毎日のように停滞した褐色の日常生活を否定されているおっさんがおもむろに激昂、通り魔と化し、おのれ畜生まず目の前のこの唐変木からと包丁片手に斬りかかってくるかもしれない、ととっさに思い「あはは」などとはぐらかして電車のドアのこちら側に退避してきたのでした。

サボテンを食べない人がいればきっとサボテンを食べる人がいていいし、サボテンは食べ物ではないと決めつけることがまかり通る現代社会にあって実はそれはナンセンスそのもので、僕はそういう固定化された思考の持ち主がとても苦手です。

思考なんてものは、豆腐の角にぶつけてみてちょっと傷つくくらいの固くなさがあっていい。そして、同時に固くたっていいとも思ってます。固さの概念って一体なんなんでしょうね。

こういう考え方を哲学と呼ぶとなんだか背中にぶつぶつができそうですが、こういう何の役にも立たないようなゴミ以下の思想をさも高尚にこねくり回して他人の思考を停止させる技術論が宗教なんだと思います。思いますし、別に思わなくってもいい。そうやって思想を天秤にかけること自体がナンセンスそのもので、僕はそういう固定化された思考の持ち主がとても苦手です。


さて、そこで時代はマーティン・レヴです。マーティン・レヴなんです。
※1

この人は、70年代後期のやさぐれたニューヨークパンクのピコピコエレクトロサイドを代表する二人組Suicideの作曲と演奏担当のおっさんですが、Suicideには大して興味がないので気になる方はインターネットで検索してください。※2
Suicideではもう一人の方の変態にやられて存在感が薄いことの反発なのかどうかわからないですが、ソロアルバムでは、なぜか妙なかわいらしさと胡散臭さを同時に醸すという高等テクニックを多用します。当時の機材のチープさと演奏技術の稚拙さが結果として変なポップセンスの源となったわけなんでしょうが、この人の汚いホームレス調の外観と音楽との不調和についてもかなりの高ポイントです。
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(左側がチープおじさん、右側が変態)

こんなチープおじさんですが、近年に至るまでソロアルバムをコンスタントに出し続けており、かつ音のチープさもしっかりとキープ。そのチープ芸に磨きをかけています。
こんないかにも汚らしいホームをレスしたような外観のおじさんがかわいらしい音楽を創ったっていいし、むしろ逆に真っ当なホームレス道を突っ走ってもらったっていい。そうやってホームレスのイメージを固定化すること自体がナンセンスで(


※1 この曲の原曲はSuicideの↓ですが、こっちについては気色悪さしか感じ得ません。


※2 Googleで不用意に「Suicide」などと検索すると、画像検索がとてもおもしろいのでうっかりやってみてください。

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